今回ご紹介するのは奈良公園から少し南にさがったところにある崇道天皇社です。
奈良県にある神社で早良親王(さわらしんのう)をお祀りしています。本来なら50代天皇やった桓武天皇の次代天皇として即位する事とされていたんですが、宮廷内紛に巻き込まれ幽閉された上、淡路國(今の淡路島と四国)に流刑、その間無実を訴えるべく絶食していた結果、亡くなったという壮絶な一生を締めくくった人物です。
そんな最後を遂げた早良親王なので、怨霊が語り継がれる第一人者となり、この神社はそんな早良親王の鎮魂の為に建立されました。
では、今回はそんなちょっと怖い(別に心霊スポットとかじゃないです)崇道天皇社に一礼。
境内散策
奈良県は奈良市、奈良公園を南へ通り抜けた先にこの神社はあります。
住宅街に囲まれた、というよりも完全に溶け込むようなこの神社は、怨霊伝説なんて微塵も感じさせない穏やかな雰囲気に包まれています。
神社建立の由来が早良親王の鎮魂という事から、境内に派手さはなく、また広くもありません。鎮魂という役目を全うすべくひっそりと佇んでいる、そんな印象です。
鳥居奥の門をくぐると左手にあるのが、祓戸社。
奥にあるのがご本殿です。
摂社は、2社。天満社と稲荷社。
御由緒
神社建立まで
早良親王は平安時代、第49代光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟に当たります。
母方の出自がふさわしくないとして太子として扱われず、出家して東大寺などに住み、親王禅師などと呼ばれていました。
その後桓武天皇が50代天皇に即位したものの、45歳(当時としては高齢扱いやった)やった為、早良親王に白羽の矢が立ち、晴れて皇太子として遇されることとなります。しかし、そんな中当時の太政大臣やった藤原種継が政争の中、殺されるという事件が起こります。下手人とされた大伴継人らが捕縛され、斬首、流刑などの重罰を課される中、早良親王もこの事件に加担したとされ、淡路国(今の淡路島~四国)へ流刑とされます。早良親王は無罪を訴え、絶食。にも拘らずその訴えが聞き入れられることはなく、憤死したとされます。
その後、次の皇太子に建てられた安殿親王(桓武天皇の第一皇子)の発病に始まり、桓武天皇縁者の相次ぐ病死、疫病の流行や洪水などが相次ぎ、これらが早良親王の祟りと恐れられるようになります。鎮魂の儀など度々執り行われるなか、806年早良親王をお祀りするこの神社が創建されたという訳です。
『崇道天皇』というのは、即位していないので正しい言い方ではありませんが、鎮魂の為、追贈された称号だそうです。
早良親王と時代への影響
まず、件の事件に早良親王が関与していたかは、学者の間では疑問視する声が多く、藤原種継と早良親王は確かに折り合いが付かなかったとされていますが、画策したというより巻き込まれたとされる説の方が有力です。
都の遷都は平城京⇒平安京はよく知られていますが、その間にわずか10年程度都がおかれた『長岡京』があります。そしてこの長岡京遷都を推進していたのが殺された藤原種継という訳です。長岡京をご存知の方は長岡京が定着しなかったのは相次ぐ疫病や天災が起こり縁起が悪いとされたとかそんな話を聞いた事はないでしょうか。この長岡京遷都がうまくいかなかったのは過程はどうあれ、藤原種継の死とそれに関与したとされた早良親王の死が遠因にあると言えます。
アクセス
- 住 所:〒630-8307 奈良県奈良市西紀寺町40
- 駐車場:なし
奈良県奈良市国道169号線紀寺交差点南東角。
まとめ
今回はこれで以上です。
早良親王の伝説からこの神社も怨霊とか心霊スポットのように語られるのをたまに見かけますが、上述の通り静かなお社です。昔怨霊がいたとしても今は鎮められ、今は静かに鎮座するのみです。ですが、歴史のとりわけ大河ドラマなどで普段中々触れられることのない、でも結構皆知ってる事件の背景でどんな出来事が起こりそこにどんな人物が関わっていたのか、そういった観点で掘り下げて見て行くと同じ出来事でもまた違った側面が見えるようで、面白いですよ。