今回は宇治にある古墳『兎道稚郎子尊宇治墓(うじのわきいらつこのみことうじぼ)』のご紹介です。
宇治に古墳が?
という意外な感覚になるかもしれませんが、『墓』という表現がなされているものの、宇治市内にある数少ない古墳の一つです。
今回は閑静な住宅街の端っこで静かに眠る『兎道稚郎子尊宇治墓』に一礼。
古墳概要
この古墳は京都府宇治市にあります。最寄り駅としては京阪宇治駅と、三室戸駅の間。この駅の間隔は狭くて角度によっては、先頭車両から駅の端っこが見えそうなくらい肉薄しているので、どっちという話でもないでしょう。
墳丘長は約80mで、詳しい解説がないのですがグーグル先生を通して航空写真で見ると、楕円形のような長方形のような形をしていることが窺えます。
被葬候補者は、第15代応神天皇の皇子『兎道稚郎子』。謎の多い人物ですが、宇治にゆかりの深い方の様で、宇治は昔『兎道』と書いて『うじ』と呼んだそうです。これは、この郎子が住んでいた為付いた名なんだとか。(今の宇治神社・宇治上神社)
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第15代応神天皇から第16代仁徳天皇の即位には諸説あるそうですが、この兎道稚郎子は立太子(皇太子になること)され、応神天皇崩御後も、仁徳天皇(当時は大鷦鷯尊)と互いに皇位を譲り合います。
その中『じゃ僕が』と名乗りを上げたのが、異母兄にあたる大山守皇子。ダチョウ倶楽部ならここで『どーぞどーぞ』と突如譲り始めるところですが、自分を立太子に推さなかった郎子達を恨み、挙兵した大山守皇子の動きをいち早く察知した二人は、大山守皇子を謀殺します。
その後も皇位継承を譲り合う二人、その期間実に3年。この間天皇の椅子が空位となってしまう事で、政局不安を強く危惧した郎子は遂に決断。自分が即位するのかと思いきや、なんと大鷦鷯尊に皇位を譲る為に自害してしまいます。この究極の譲り合い精神の末にこの兎道稚郎子は早逝し、この地に弔われたという訳です。
第15代~16代の皇位継承のお話には諸説あって、昔は普通に仁徳天皇が即位すべく兎道稚郎子を攻め立てたという説が主流だったようですが、こっちの説によれば全く違う様相を呈してくるのがとても趣深いですね☆
外周散策
参道
京阪宇治駅とお隣の三室戸駅の間辺りに参道入り口があります。車道沿いに何げなく入口の碑が立っているので、うっかりすると見落とします。
御拝所
参道をまっすぐ進むと見えてくる御拝所。その脇には宮内庁の文字で『応神天皇皇太子兎道稚郎子尊』の文字が刻まれています。
外周
北・東部は住宅地に隣接しているので、外周散策は御拝所のある南側と西側を見て回ることが出来ます。形状を詳しく見て取る事はできないですが、宮内庁治定では前方後円墳とされています。
陪塚
線路沿いまで戻ったあたりに現存する陪塚があります。細い道の割に結構交通量のある道沿いなので、引かれないように注意。
アクセス
- 住 所:〒611-0013 京都府宇治市莵道丸山
- 駐車場:なし
京阪電車『三室戸駅』徒歩5分。
まとめ
今回はこれで以上です。
静かな住宅地の中に在る陵墓なので、そこそこの穴場スポットに位置付けられる場所ですが、宇治の歴史を語る上で外せないスポットなので、宇治観光の帰り、もしくは宇治駅周辺の観光に行く前にでもちょっとした散歩感覚でご参拝してみてはいかがでしょうか。