今回は大阪にある叡福寺さんというお寺のご紹介です。
叡福寺、そのお名前自体はそれほど耳馴染みは無いかも知れませんが、その北側にあるものが結構すごい。『聖徳太子廟』、つまり聖徳太子のお墓とされる場所があります。
今回はそんな叡福寺と聖徳太子廟に一礼。
寺院概要
寺院があるのは大阪府南河内郡太子町
このお寺があるのは大阪府南河内郡太子町。太子というのは無論、聖徳太子を指していて、太子が生まれた街として長い歴史を持っています。それだけに、この地域には聖徳太子に纏わる・関連する施設がたくさんあります。
聖徳太子の時代には聖徳太子ばっかりがピックアップされて、他は全員無能あまりライトが当たることは少ないんですが、どっちかといえば聖徳太子が目立ちすぎるだけで、当然その時代にしっかりと活躍していた人は大勢いるわけで、この太子町にはそんな太子が活躍した時代に関連する人物縁の施設や場所が点在しています。
例えば、この太子廟の真裏には太子の乳母三人(三尼公)のお墓、太子が摂政を努めていた際に即位していた推古天皇の陵墓、太子とタッグを組んで蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子の墓、太子に関連の深い第30代敏達天皇・第31代用明天皇の陵墓など。
今でこそ大阪と奈良の境にあるのどかな田舎といったところですが、昔は奈良ー大阪を結ぶこの辺りは昔、もっと栄えていたのだろうことが窺えます。
聖徳太子廟守護の為に建立されたお寺
この叡福寺は聖徳太子廟(叡福寺北古墳)のために建立されたお寺と言って良い場所で、当然建立されたのも聖徳太子の没後すぐ推古天皇からこの地を賜り、香華寺という太子のお墓を守る霊廟が作られたのが始まりとされています。
その後、724年聖武天皇の勅願によって伽藍が造営されます。
太子信仰といい、聖徳太子は死後に極楽浄土へいけた第一人者とする信仰が広がりました。ここは太子信仰の三大寺院『河内三太子(「大聖勝軍寺」(下之太子)、「野中寺」(中之太子)、「叡福寺」(上之太子))』として数えられる一つです☆
また、聖徳太子縁のお寺という事で、歴代天皇がこぞってお参りしたり、平清盛に堂塔の修理を受けるなど厚く信仰を受けていましたが、戦国時代には織田信長による兵火に巻き込まれ当時からの建物は焼失してしまいました。現存する建物は1600年代に豊臣秀頼によって再建されたものになります。
アクセスなど
- 住 所:〒583-0995 大阪府南河内郡太子町大字太子2146
- 駐車場:境内門前に20台程度あり。
駐車場・拝観料ともに無料。建造物の由緒や聖徳太子のお墓という知名度に比してかなり良心的。
境内散策
南大門
1600年代に再建され、老朽化により昭和33年に再度建築し直されたというこのお寺の入り口です。
金堂
大門をくぐるとまっすぐ左手に見えてくるのが金堂。
安置される御本尊は『高さ90mの如意輪観音の坐像』とお寺のHPにありましたが、それが本当なら縦直列の奈良の大仏または、ガンダム5体分、ということになってしまうのでなにかの間違いでしょう。
叡福寺北古墳
境内の最奥にあるのが聖徳太子のお墓とされる叡福寺北古墳。
宮内庁治定は必ずしも正しいということにはならないですが、ある程度信頼性がある現れということでしょう。
古墳の概要はこんな感じ。
- 南北:43m
- 東西:53m
- 高さ:11m
- 形状:円墳、横穴式石室あり。
宝塔
金堂の前にある宝塔、1652年に作られたものです。
御朱印
御朱印は寺務所で頂けます。
科長山というのはこの辺りの地名で、真ん中に『聖徳廟』の文字。廟の字が特にお気に入りです。
まとめ
今回はこれで以上です。
聖徳太子ゆかりの寺院といえばまず法隆寺があって、四天王寺、広隆寺など関西はおろか全国でも指折りの知名度を誇る寺院が名前を連ね、河内三太子は影が薄くなりがちですが、聖徳太子のお墓がある寺院という事で、ゆかりのという意味ではこれ以上ゆかりの深い寺院もありません。
周辺には聖徳太子の時代に縁の深い場所も多い為、たまのお休み、のどかなこの辺りの風景をゆっくりと眺めながら巡っていくのも良い過ごし方かも知れません。