今回は大阪にある岸和田城のご紹介です。
別名『千亀利城(ちきりじょう)』と呼ばれる大阪南西部にそびえる城で、現存するのは3層3階の天守閣のみですが、昔から京都・奈良と言う政治的な中枢から海に出る要衝として栄えた大阪の海の要衝として機能してきた重要拠点です。
では、今回はそんな岸和田城に一礼。
お城概要
どこにあるの?
このお城は大阪府岸和田市にあります。大阪府堺市を中心とする大阪湾一帯の港町は京都・奈良と言う内陸から外洋に繋がる海の玄関口として昔から交通・防衛・経済の要衝として扱われてきました。
ちょっと地図が小さいかもしれませんが、勇壮なだんじりもほぼほぼこの岸和田城を中心に巡っていきます。正に岸和田市のシンボルと言っても良い存在です。
建立の歴史とか領主・城主のご紹介
岸和田氏
そもそも岸和田と言う街を拓いたのは1300年代、時代でいうところの建武の新政などの頃に猛将楠木正成方の武将『岸和田治氏』によるもので、その後一族によって開拓がなされたものとされています。ただ、この頃はまだこの岸和田城と呼べるものはありませんでした。
岸和田城自体は楠木正成の甥『和田高家』による築城とする説がありますが、築城の年と和田高家活躍の時代とは100年以上の開きがあり、信ぴょう性に(?)とされる部分もありますが、和田高家でないとすればはっきりと築城主がいなくなってしまうというちょっとしたミステリー含みのお城だったりもします。
細川氏
その後1408年には細川氏が和泉国の南北半守護と言う形で統治するようになります。
畠山氏に攻められて、当時の城主細川政久が討死の後、細川家重臣赤沢朝経が奪還したりと、段々この城の置かれている場所が重要拠点であるが故にめまぐるしく城主が変わるきな臭い時代に変容していきます。
松浦氏と三好氏
細川氏に代わって和泉を治める事となった松浦氏ですが、時代は丁度細川晴元VS三好長慶の対立が激化する最中。元々細川に従う松浦氏はこの対立を期に三好側ヘ離反します。代替わりが進む中、跡取りが幼少であることを理由に、松浦氏の実権を認めつつも三好氏は岸和田城へ入場する事となります。
三好氏と共に岸和田城へ入場を果たしたのは三好実休、十河一存、安宅冬康の三人でした。この頃岸和田城は阿波国や讃岐国からの交通の要衝となっていた為、三好実休は大規模な改修工事を行いますが、この時に岸和田城城郭の基礎が築かれたとされています。
織田氏
ご存知織田信長に従う事にした松浦氏は畠山氏と共に、三好三人衆や荒木村重らと闘うも惨敗。織田氏が石山本願寺を攻めた天王寺の戦いの際には、本願寺方に兵糧を届けようとする毛利氏の援軍を阻止する為に和泉水軍と言う連合軍で以て闘いに当たりますが大敗。その後、織田氏は紀州征伐を行いますが、紀伊方面の抑えとして織田信張を派遣、織田信張が岸和田城を治める事となります。
豊臣氏(中村氏)~徳川氏(岡部氏)
根来衆・雑賀衆・粉河衆などの一揆衆との対立が深まっていった豊臣秀吉は、重臣の一人中村一氏をこのお城の守護に置き、一揆衆討伐を命じます。
その後、織田の跡目争いである『小牧長久手の戦い』に出兵した豊臣氏の留守を狙った一揆衆は総勢3万の兵力を以て岸和田城を攻め立てます。
これを迎え撃つ中村一氏と松浦宗清の手勢は8千。実に兵力差4倍の戦いだったわけですが、中村氏達の獅子奮迅の活躍により見事撃退。大量の蛸達のご加護があったという伝説があります。
岸和田のむかし話3 蛸地蔵の話 – 岸和田市公式ウェブサイト
この活躍が認められ、中村氏は伊勢国へ転封。その後小出氏が城主となります。
時代は豊臣から徳川に進むにつれて、大坂冬の陣では松平信吉が城主に、その後北条氏重、などが城主になり、岡部氏は明治時代の廃藩置県に至るまで、その後13代続く岸和田城主として君臨する事となります。
城内散策
現存するのは天守と周りのお堀くらいですが、立派な門構えから十分に雰囲気を味わう事が出来ます。
天守
このお城、かつての城郭は残っていませんが、天守は昭和29年に再建されたものが健在。その後、平成4年に修繕工事もなされているので、割と綺麗。
中は有料の博物館になっています。大人300円、まあ普通と言ったところでしょうか。
館内は概ね撮影禁止なので、写真はありませんが最上階の三階からは岸和田市の街並みは勿論、城前に拡がる『八陣の庭』を一望する事が出来ます。
八陣の庭
岸和田城正面に拡がる独特の紋様の様な形をした庭『八陣の庭』。
諸葛孔明の『八陣法』をテーマとして設計されたお庭で、天守の大将からみて八つの陣(蛇・天・虎・地・鳥・風・雲・竜)の各陣を配置した勇壮なお庭です。
平面からは中々全貌を掴む事が出来ませんが、天守に登って上から眺めるとその全貌を掴む事が出来ます。
二の丸跡
天守との前に位置するもう一つの小高い建物が二の丸跡。
今は公園として開放されていて、岸和田民の憩いの場になっています。
アクセス・最寄り駅・駐車場など
住 所:〒596-0073 大阪府岸和田市岸城町9−1
大阪府岸和田市内『蛸地蔵』駅徒歩4分。
お城の隣に駐車場があります。最初の一時間無料、以降一時間100円とかなり良心的なので、駐車場についても悩む必要はありません。
まとめ
今回はこれで以上です。
紹介した通り、岸和田は海運、そして西側との交通の拠点として重宝された土地で、和歌山側と山を挟んだ境にある町でもあって、戦国時代に元気があった粉河衆などの僧兵との諍いも絶えなかった土地柄、戦火に巻き込まれることが多い街です。その為その主も転々と名前を変える事となった為、誰々氏の城と言う印象は薄いかもしれませんが、岸和田市のシンボルとして観光では外せない場所ではあります。だんじりの時期についでに、とか思うとものっすごい混雑に巻き込まれて思う存分後悔する事になるするので、オフシーズンの観光がお薦めです。