今回はぶらりと大阪を旅する際のおすすめコース『真田幸村旧跡巡り』です。
ついこないだかのように思える大河ドラマ『真田丸』の主人公『真田幸村(信繁)』ですが、その人々に『日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』とまで言わしめたその活躍は大阪での戦によるものです。
今回はそんな真田幸村の活躍を大阪にある幸村所縁の地を巡りながら偲ぶプランです。
はじめに
真田幸村略歴
流石に真田幸村って誰?って人はいないと思いますが、前説です。これを読めばあなたも歴史通です。
筆者もにわかファンの為、そこまで掘り下げて書いてあるわけではありません☆
真田家昌幸の次男坊として生まれる
まず『真田幸村』の名前でご存じの方も多いと思いますが、実は本名は信繁です。
(ややこしいので、文中では便宜上幸村で統一します。)
これは、当時の文献や手紙などの宛名を確認する限り明らかで、幸村の名前は後の大坂の陣を描いた書籍で登場した際に『真田左衛門尉幸村』と名乗って登場したことからこれが世に広く伝わったためとされています。昔からメディアの力って恐ろしいものです。
幸村の父親の名前は『昌幸』。父親から一字貰った幸村という名前は妙に説得力もあったようです☆
~関ヶ原の戦い
出生の頃、真田家は武田家の家臣でした。信玄・勝頼と二代に渡り仕えたものの肝心の武田家が滅亡し、その後は織田、豊臣と主君を変えていきます。
幸村は豊臣には人質として大阪城に留め置かれる中、馬廻衆としての地位を確立し、豊臣との縁を深める一方で徳川とは所領が近接することから度々小競り合いをする仲でした。
徳川VS真田の争いは第一次上田合戦という名前で知られています☆
天下分け目の関ヶ原の戦いの際は、幸村は西軍の重鎮大谷吉継の、兄の信幸は東軍の本多忠勝の娘をそれぞれ娶っていた真田家。親子はそこでたもとを分かつこととなります。つまり、東軍と縁のある兄は東軍に、西軍へは幸村と昌幸が付くこととなり、関ヶ原へ向かい西進する徳川秀忠軍を迎え撃つ事となりました。
この時の戦を関ヶ原の戦いとは別に、第二次上田合戦というんですが、記録上は大きな衝突はなく、秀忠軍の関ヶ原到着を遅らせる真田側の知略だったとも言われています☆
高野山隠棲~大阪城入城
秀忠軍の遅参はさせたものの、関ヶ原は西軍の大敗。西軍に与したとされた真田昌幸・幸村は当然責めを受けることとなりました。本来なら処刑されてもおかしくなかったんですが、兄信幸の嘆願により所領剥奪の上で高野山九度山へ配流(島流しみたいな扱い)となります。隠居同然の生活の中で父昌幸は死去、幸村も一度は出家します。
その後、方広寺の鐘の事件、豊臣方が鋳造した方広寺の鐘の文字について因縁をつけた有名な事件です。以来、再び東西で関係が悪化、頼る者の居ない豊臣方は秀吉が遺したとされる莫大な遺産を以て浪人を参集してかかります。そんな中、幸村にも声がかかり、厳重な監視の目をかいくぐり幸村は大坂の陣の前に大阪城へと入城を果たします。
有名な『真田の赤備え』はこの入城の際に設えられていて、当時赤色は高級品として扱われていた事や戦場でも目立つ事を狙ったと言われています☆
大坂の陣概要
大坂の冬の陣
大阪の陣は冬➩夏の順で二度行われています。
主戦場となったのは大阪城の南側、今で言う天王寺辺り。当時の大阪城は秀吉自慢の居城で堅牢無比。城郭の大きさは勿論、内外の二重に張り巡らされた堀は敵の侵入すら容易でなかったものの、南側は広く平野が開けていたため、総勢20万の大群はこの南側を中心に布陣します。
この時に徳川方が本陣を今の天王寺公園辺りの茶臼山に置きます。当時は高層ビルもなかったので、大阪城まではよく見渡せたことでしょう。
対する豊臣方の先方を担う真田が造らせたのが有名な真田丸です。当初真田や後藤又兵衛などの主戦派は城を出て戦う事を主張したものの、大野治長などの籠城派を説得するには至らなかったため、城外に立てられた要塞で最前線基地と監視塔の両方の役割を持っていたとされています。
徳川は個さんの家臣団20万、対する豊臣軍は寄せ集めの浪人集団10万という数の上でも質でも圧倒的に豊臣方不利の戦だったと言われています☆
しかしながら、合戦の結果は豊臣方の圧勝だったと言って良い結果になりました。何を以てという点でちがいはあるものの、兵数差倍で四方から城を包囲したにも関わらず、和議で決着という結果は、徳川が和議を提案せざるを得なかったととって良いと解釈できます。
真田丸を擁しての幸村の戦いぶりが後ほどの記録で『日本一の兵』と評される事となったと言われています☆
大阪夏の陣
夏の陣は冬の陣のすぐ翌年に勃発します。
冬の陣決着時の講和条件は3つの内いずれか。
- 大阪城の外堀を埋め、二の丸・三の丸を破壊すること
- 淀殿(豊臣秀吉の側室で秀頼の母)を江戸城の人質にすること
- 浪人衆を解雇すること
いずれの再戦を予感していた豊臣方としてはいずれも飲み難い条件ではあるものの、下の2つは戦うことすら出来なくなってしまうとして外堀を埋める条件を飲み和議を成立させました。
徳川方はこの時の条件になかった内堀も全て埋めてしまうという暴挙に出た徳川によって護るもののなくなってしまった大阪城に対し冬の陣の翌年、再び徳川方は大阪城へ攻め入ります。
堀のなくなってしまった大阪城で籠城作戦は取れないため、豊臣方は冬の陣と同様南側に出て野戦に持ち込みます。
冬の陣よりも更に劣勢に立たされた豊臣勢は一点突破。毛利勝永とともに獅子奮迅の活躍を見せた幸村は徳川本陣を急襲し、一度は徳川家康を自害未遂に追い込むまでに及びますが、数で圧倒的に勝る徳川は徐々に巻き返し、総大将豊臣秀頼不出馬も士気低下の一因となり惨敗します。
敗走の折、天王寺近くの安居神社で身を休めていた幸村は敵兵に見つかり首を討たれその壮絶な生涯に幕を閉じるに至ったというわけです。享年49歳でした。
今回ご紹介する旧跡
幸村の主な活躍の舞台は所領地の信州を除いては大阪に集中しています。結構歩くことになりますが、大阪城から南へ向けて点在する所縁の地を巡る道程は感慨深いものがあります。
大阪城を出発地点にして、ご紹介の順番は北から南へ巡りやすいように並べてあります。
大阪城
豊臣の象徴だった大阪城はその滅亡後、一度徹底的に破壊され、その後徳川の天領(直轄領)として再築城されます。その為、現存するものは戦後に復元された事以前に、二の丸や堀などの施設も含め豊臣とは全くゆかりのないものになってしまってはいるものの、立派な石垣や再現された堀などは十分に見応えがあります。
三光神社
大阪環状線の内側『玉造駅』から徒歩圏内にある三光神社。この一帯の地名は『真田山』、この辺りが大坂の陣で豊臣方の急先鋒を担った真田丸があった場所とされています。
大阪城がもしもの際は秀頼が落ち延びられるようにと掘られた『真田の抜け穴』があったとされていて、この神社では今でも幸村公像がお祀りされている、なにかと縁の深い場所です。
心眼寺
真田丸石碑の真向かいに建つ寺院です。
大阪冬の陣の後に一度は取り壊されたものの、海野氏(真田家の親族)によって幸村とその子大助の供養のために再建されたお寺とされています。
寺の境内には真田家の家紋『六文銭』の旗が掲げられ、『従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓』と彫られた墓碑があります。
『豊臣』姓が銘打たれていますが、優れた家臣には親族同然として扱う秀吉から賜ったもので、これは正しい表現のようです☆
真田丸跡地
心眼寺の真向かいに建っているのが大阪でも有数の進学校大阪明星中学校・高等学校なんですが、真田丸の中心は正にこの学校の敷地内に当たるんだとか。流石に校内を観光して回ってもらうことも出来ないので、敷地外苑にそれとわかるように記念碑が建てられています。
円珠庵(鎌八幡)
真田丸の西側に位置する寺院『円珠庵』という寺院があります。信仰の場であることから、境内の撮影は一切NG。
境内にある御神木に『鎌八幡大菩薩』と唱えながら鎌を刺すと神力を授かれるとされる場所で、大阪冬の陣に挑む幸村もここで鎌を刺して戦勝を祈願し、見事冬の陣の勝利を得たとされている場所です。
当該の御神木には未だ真新しい祈願の鎌が刺さっていて、その神力にあやかろうという信仰の厚さも伺える霊験あらたかな場所です。
こちらでは御朱印も頂けます。
産湯稲荷神社
近鉄鶴橋駅と上本町駅のちょうど間位、千日前通のすぐ北にある公園に面するようにして建つひっそりとした神社が産湯稲荷神社です。
ここにはかつて大阪六清水の一つと言われた『産湯清水』の湧く井戸があったそうです。今は水質の悪化も伴って飲める状態にないようですが、ここも三光神社と同様、真田の抜け穴があったとされる候補地の一つとされています。
真田幸村緒戦勝利の碑
近鉄上本町駅、10番出口から地上に上がったすぐの場所にひっそりと建つ記念碑があります。真田幸村緒戦勝利の碑と刻まれている石碑。
恐らく場所から推測して冬の陣で戦勝を飾ったことを指している碑だとは思いますが、注釈がまったくないので真偽の程は不明。
安居神社
幸村が終焉を迎えたとされる神社です。
豊臣軍が離散した後、落ち延びた幸村はこの神社境内で体を休めていたところ、敵に見つかってしまいます。覚悟を決めた幸村はこの首を手柄にしろ、と発見した敵方大将に伝え自分の言葉通り首討たれ人生の幕を閉じることとなりました。
境内には今もその周縁を迎えた正にその場所に疲れて座り込む幸村公像が建つなどしています。
神社自体は割とひっそりとした神社ではあるので、終焉を迎え、何かしら悟ったような表情の幸村像とともに、当時に思いを馳せることが出来ます。
茶臼山
大阪を巡る2つの大戦『大阪冬の陣』『大阪夏の陣』それぞれで重要な拠点とされたのが天王寺公園内にある茶臼山。
大阪冬の陣では徳川家康が本陣を敷き、夏の陣では豊臣方が本陣を置いたとされる戦略的拠点です。
宮内庁比定はされていないものの、古墳ではないかとされている場所でもあり、史跡として巡る価値は色んな意味で十分にある場所です。
志紀長吉神社
大阪夏の陣の初戦、道明寺の戦いの救援に向かった真田幸村と毛利勝永は、先鋒隊の救援に間に合わず敢え無く退却することとなります。転戦の折に立ち寄ったとされるのがこの志紀長吉神社。戦神素戔嗚尊と同一神とされる牛頭天王をお祀りするこの神社に軍旗と刀剣を奉納し、戦勝祈願をしたとされていて軍旗は今でも社宝として保存されていて、定期的な公開も行っているんだとか。
このエピソードから試験・ギャンブルなど勝運祈願としても名が知られる神社でもあります。
この神社の南には、夏の陣のクライマックスへ向かう前に幸村が休息をとった場所というのもあります。
まとめ
今回はこれで以上です。
真田丸放映当時はもうこの辺りの名所旧跡は溢れんばかりの観光客が訪れていたようですが、今はほぼ無人。ゆっくりと所縁の地をめぐることが出来ます。
行程を全部徒歩で回ると巡ると約半日歩きづめということになってしまいます。
エリアとしては1~7、8・9、10の3エリアに分かれていて、それぞれを環状線や近鉄線で移動するのがスムーズです。