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山崎の合戦にて。明智光秀軍本陣となった『勝龍寺城』

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今日は京都・長岡京市にある勝龍寺城。
長岡京といえば数十年だけ都が置かれた場所として教科書でもお馴染みですが、同時に天王山と呼ばれる羽柴VS明智が戦った『山崎の戦い』のほど近くという事で、明智光秀ゆかりの地を巡る上で欠かせない場所、それが今回の勝龍寺城です。

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お城概要

お城があるのは京都府長岡京市

このお城があるのは京都府長岡京市。長岡京といえば平城京➩長岡京➩平安京という遷都が行われたものの、わずか11年という短期間のうちに平安京へと都が遷されてしまった残念都市、それが長岡京です。

長岡京も残念なおっさんに言われたくないと思うよ☆

築城は南北朝時代

このお城が建てられたのは南北朝時代の細川頼春、もしくは山城守護畠山義就によるものとされています。当初は軍事施設ではなく郡代役所(徴税などを行う地方の役所のようなもの)として建てられました。

現在は『魅せる公園』としてしっかり整備された観光スポット

数々歴史の舞台となった勝龍寺城ですが、敷地内は公園としてきれいに整備され、資料室が作られて開放されています。

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天守など派手な建物が再現されているわけではありませんが、地元の人が親しみやすいように整備された公園として、また敷地内に櫓が再現されたり石垣が残っていたりと見どころはしっかりと残っているので、正に魅せる城跡として造られています。

このお城をとりまく出来事

勝龍寺の戦い

織田信長が足利義昭を奉じて都への上洛を果たそうとする中、三好三人衆の一人岩成友通が激突したのが勝龍寺の戦い。

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ウィキペディアより

織田方は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚という織田軍オールスター、岩成方も奮戦しますが、結果大敗。
敗因の一つには、前哨戦で滋賀観音寺城合戦があったんですが、六角氏が負けるわけないよ!と思っていたら一日であっさり陥落してしまった為に準備不足だったという説もあります。
最終的にこの戦いで織田軍は三好三人衆を阿波へ追放することで足利義昭と共に見事上洛を果たしたというわけです。

細川ガラシャお輿入れ

明智光秀の娘で戦国時代一の美女との呼び声も高い細川ガラシャ。元は明智玉といいます。
勝竜寺城は織田信長平定後、細川藤孝(幽斎)が山城の領地と共にこの城を与えられることとなります。
藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぐ事となった玉がお輿入れをしたのがこの勝龍寺城、わずか2年の間ですがここで玉は幸せな時間を過ごしたと言われています。傍から見ると薄幸で壮絶な人生を送った彼女が、唯一華やかで幸せに過ごせた時間だったのかも知れません。今でも『ガラシャ祭り』といって、お玉お輿入れを再現するお祭りが長岡京市を挙げて行われます。(2020年はコロナの影響で実施されず)
長岡京市民に親しまれている祭りのようで、実施できなかった悔しさがにじみ出るポスターが貼られていました。

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山崎の戦い

大河ドラマ『麒麟がくる』の恐らくクライマックスになるだろう羽柴VS明智の戦いの舞台にもなりました。

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本能寺の変の後、光秀は京都より東の平定に力を注ぎます。居城である比叡山坂本城があったり、その延長線上に織田家筆頭の柴田勝家対策を重視したためとも。
その一方で、織田討ち死にの報を聞くと陥落寸前まで追い込んでいた毛利勢と和議。
急遽明智討伐へ向かいます、いわゆる中国大返しというやつです。
明智・羽柴両軍が相対することとなったのが今で言う大山崎町。西側から進軍した橋場方が拠点としたのが山崎城、明智方が拠点をおいたのがこの勝龍寺城だったというわけです。

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スポーツなどトーナメント戦などで『この一戦の勝者が優勝する』という意味で天下分け目の天王山という言い方をしますが、この戦いが語源となっています☆

結果は兵力で二倍上回った羽柴方の圧勝。明智光秀は自拠点の坂本城へ敗走中に、落ち武者狩りに遭って討ち死にしたとされています。

 

開園時間・アクセスなど

  • 開園時間:午前9時から午後5時(4月から10月は午後6時)
  • 定休日 :無休(12月28日から1月4日を除く)
  • 住  所:〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13−1
  • 駐車場 :あり。併設する数台分ほか数箇所。

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駐車場は周辺のコインパーキングも含めると困ることはありません。また電車でもJR長岡京駅から10分程度とアクセス良好の為、どちらでも訪れやすい場所にあると言えます。長岡京駅~勝龍寺城に至る道は『ガラシャ通り』と呼ばれ、お土産屋さんが並んだりといった華やかな通りではありませんが、ガラシャ祭りの際はここを輿入れの列が通るそうで、雰囲気を楽しみたい方は断然電車です。

このお城ゆかりの人物

明智光秀

言わずと知れた織田家家臣の一人で、本能寺の変によって織田信長を討ち取った人物。

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日本では織田信長の人気が高い為か、本能寺の変が不意打ちのような印象を与えるからか、昔からあまり良い印象を持たれることの少なかったのが、最近大河ドラマの影響なのか、足利家再興に奮闘したエピソードが見直されたり、不明とされる織田討伐の真意に焦点が当てられたりと高感度急上昇中の武将です。
戦国時代を舞台としたドラマ・アニメ・ゲームなどでもよくメインキャラの一人として名前が上がる事も多く見られます。
家紋は桔梗紋、個人的に一番好きな家紋の一つなんですが、明智討ち死にの後しばらくは裏切り者の紋と言われるようになった見た目の美しさに反して不名誉な扱いを受ける紋です。

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細川ガラシャ

明智光秀の三女で本名は明智(細川)玉。天正6年8月、細川家嫡男忠興の元へ嫁ぎ、姓が細川に変わります。この時の輿入れを再現したのがガラシャ祭りです。

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幸せな新婚といえば聞こえは良いですが、中身は織田信長による家臣同士の結びつきを強くしようという政略結婚です。
そしてそんな新婚生活も2年しか続くことはありませんでした。
父の明智光秀が本能寺の変で信長を討ち、翻って秀吉に討たれることとなります。
典型的な裏切り者の娘になってしまった玉は夫の忠興にすら迫害を受け、京丹後の村に幽閉されることとなりました。

普通離縁となりそうなものですが、そうならなかったのは忠興自身もどこかで割り切れなかったのかも知れませんね☆

ガラシャという名前はこの際にキリシタンに感銘を受け改修したため。その後も順調にクズ夫っぷりを発揮する細川忠興にガラシャは夫との離縁を望むようになりますが、キリスト教で離縁は認められないそうで、モヤモヤとした毎日を送っていたんだとか。

ある日、徳川家康が上杉討伐に向かうと夫の細川忠興はそれに従軍。この時にというか不在時に忠興は家臣へ

「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」

個人的にタヒねばいいのにくらいに思えてくる事を言い残して出陣した夫。その不在時に事は起こります。家康の留守を狙って挙兵した石田三成が味方を募る際に主だった武将の妻たちを人質にとろうとしたんです。
ガラシャはこれを拒否。キリスト教は自害を許さないという教えからガラシャは、家臣の介錯で以て死を選ぶことになり、その死骸が残らないように屋敷ごと爆砕するという壮絶な最後を遂げます。
直接的な要因は明智光秀の敗北に端を発するものの、総じて男運に恵まれなかったため、美人薄命という言葉通り、報われない一生を送ることになってしまった印象を受けてしまう人物です。

細川藤孝・忠興

後に明智光秀と姻戚関係となる親子です。藤孝は元々足利義輝の家臣として仕えていたものの、義輝が松永の一派に暗殺された後、義昭の将軍擁立に尽力した中心人物でもあります。
その後、義昭と信長の関係が悪化、義昭を京都から追放した後は織田家の家臣としてこの勝龍寺城のある長岡京・向日市のあたりを所領として与えられることとなります。
その後、光秀とは対等でもあり、家臣でもあるという関係でタッグを組んで各地で軍功を挙げていきます。

信長の家臣という意味で光秀は先輩ですが、同時に親戚関係でもありました。それ以前から義輝・義昭を仰ぐ時代から続く二人は単純に上司・部下では言い表せない関係性があったと思われます☆

本能寺の変以後、光秀から再三自軍へ従うように促されますが、藤孝は信長の死を受けて『喪に服す』として中立の立場を貫きその結果、光秀は討ち死に。忠興の妻は裏切り者の娘として夫たる忠興自身からも迫害されるようになってしまいます。

結果的に関ケ原の戦いで武功を挙げた忠興によって細川家は大大名として名を残すこととなりますが、ガラシャへの仕打ちといい、親戚関係にあった光秀を裏切ったりと良いエピソードに恵まれない為、あまりいい印象を持たれることのない武将筆頭に上がる人物ですね☆

境内散策

南門

城の南側に面する現在は公園の正門のようなポジションに当たる場所。

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門構えも立派ですが、わきに建てられた龍のモニュメントが超リアル。

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資料館

このお城、天守は現存していませんが代わりに公園管理棟という建物が建てられています。けど、見た目はどうみても綺麗に改装されたお城。

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中の撮影はNGだったので写真はありませんが、このお城にゆかりの深い明智光秀、ガラシャ、細川親子に関する丁寧な説明があったり、城跡から出土した瓦などの展示があったりと意外と見応えあり。しかも無料です。

城内庭園

公園として綺麗に整備されています。紫の花がきれいに咲き誇り、歴史を思わせるというより単純に歩いていて気持ちのいい公園として改修されているようです。

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そんな中にも櫓が再現されていたり

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昔の土塁が残されていたりとしっかり当時をしのばせるものも設置。

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お堀と外塀

お堀と外塀も綺麗に改修されています。お堀は普通、池ですら無い水溜めなので流れがありません。よってドロドロで苔むしていたりするのが普通なんですが、ここは綺麗に整備されています。

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塀も真っ白に保たれています。狭間(さま)と呼ばれる外敵が城壁に取り付いた際に、鉄砲で撃退する穴も再現。

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まとめ

今回はこれで以上です。
お城巡りの上級者は石垣のみの城跡を見ても感動できるそうですが、僕も含め城初心者にはなかなかハードルが高いです。
このお城は適度に綺麗で、丁寧な説明書きも添えられていて気軽に楽しむことが出来るお城初心者にオススメの城。
明智光秀を中心に、細川ガラシャ、細川親子。四者四様の数奇な運命を辿ることとなったその足跡を思う存分感じて下さい。

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