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祟りの親王が眠る陵墓『崇道天皇陵』

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今回は奈良県にある崇道天皇陵のご紹介です。
崇道天皇というのは正しくは早良親王といい、厳密に言えば天皇として即位していないので、正しい言い方ではありません。それがなぜ天皇と称されているのか、今回はそんな崇道天皇陵に一礼。

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古墳概要

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古墳があるのは奈良県奈良市

この古墳があるのは奈良県奈良市。奈良県の主要幹線道路国道24号線と並走して走るこの南北の道沿いにはこの古墳を初め、様々な史跡が点在していて『山の辺の道 北コース』という散策・サイクリングロードとしても人気の場所で、その散策コースのちょうど真ん中あたりに位置するのが今回の崇道天皇陵です。

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古墳の大きさなど

この陵墓の大きさは延喜式によると陵域が東西436m、南北545mとされていますが、実際に歩いてみるとそこまでの大きさは感じません。奈良県の陵墓表では東西109m、南北69mとあるので、こちらのほうが正しい、もしくは時代の変遷とともに陵域が段々と狭まっていったものと考えられます。

陵墓情報・アクセスなど

  • 住  所:〒630-8435 奈良県奈良市八島町
  • 被葬者 :崇道天皇(早良親王)
  • 墳丘形状:円墳
  • 建造時期:不明
  • 駐車場 :なし

崇道天皇(早良親王)

崇道天皇は奈良時代末期の皇族です。同時期に即位した天皇に平安遷都で有名な桓武天皇が挙げられますが、この崇道天皇自身立太子(皇太子とされること)されたものの、天皇に即位していないので、第〇〇代天皇などの天皇系譜には数えられません。
ではなぜ『天皇』とされ、古墳が存在しているのか。それは呪い・祟りにあります。
※ややこしいので、便宜上、文中では崇道天皇で統一します。

不遇の扱いの末に立太子した崇道天皇

崇道天皇の出生は奈良時代末期の750年。桓武天皇の異母兄弟にあたるものの、母親が下級貴族だったこともあり、当初立太子は望まれておらず、当初は出家して親王禅師と呼ばれていました。
これは珍しいことではなかったようです。長男が家督を継ぎ、次男以降は他家へ養子に出されていたのとイメージ的には一緒ですね。
ですが、兄桓武天皇の即位と同時にその先代にあたる光仁天皇の勧めによって還俗し、そこで初めて立太子されることとなります。
これは桓武天皇が崩御した際、その子『安殿親王』が幼帝となってしまい、少なからず起こり得る政治的不安を取り除く為と言われていて、また崇道天皇は結婚せず当然子供もいなかったことから、安殿親王の即位への障害もなかったことも立太子の一因とされています。

現在と違い、当時の天皇の皇位継承は跡目争いがしばしば起こっていたようです☆

濡れ衣と言われる罪により流罪の末に憤死

突如天皇への道が拓けた崇道天皇でしたが、その矢先に事件が勃発します。
長岡京遷都の事業責任者だった藤原種継が暗殺されてしまいます。この事件の黒幕とされたのが崇道天皇。乙訓寺に幽閉されながら、身の潔白を示すため絶食して訴えたものの、淡路国(淡路島)へ配流とされ、その移動途中に大阪守口にある高瀬神社にて憤死したとされています。

高瀬神社 (守口市) – Wikipedia

この関与に関して真偽は当人にしかわからないですが、東大寺の開山祖『良弁』から僧侶『親王禅師』としての後事を託されていたらしいことなどが挙げられます。
当時の東大寺・大安寺などの影響力が強く、それが疎ましいと考える派閥もあったようで、その先鋒として企画されたのが藤原種継が主導する長岡京遷都でした。

東大寺は遥か北に遷都されては自分たちの影響力も弱まってしまうと危惧して崇道天皇に種継暗殺を画策させたと見られたとすれば辻褄があったようですね☆

崇道天皇の死後、祟りとされる現象が多発

上述の通り、無念のまま亡くなった崇道天皇。本人はずっと無罪を訴え続けていたんですから納得できるはずもありませんが、死人に口なし。ただ崇道天皇は口で語らずともその無念は祟り、または呪いという形で表出することとなります。
桓武天皇の子安殿親王が謎の発病、桓武天皇の母に当たる高野新笠と妃三名の病死、他にも疫病や洪水などが相次ぎ、これらが崇道天皇の祟りではと恐れられ、幾度となく鎮魂儀が行われたんですが治まりません。

科学の発展もなく、まだ天災は全て神の御力によるものとされていた時代です。度重なる不幸の連続は祟りと結びつけてしまっても仕方のないことかもしれません。
特に見に覚えのある方は☆

そこで、それまでの早良親王という名前を『崇道天皇』と改めて追尊(死後敬意を評して贈られる称号)します。これが皇位継承をしていないけど、天皇と呼ばれる珍しい存在の誕生の敬意です。ただ、そんな特異な対応をしたけど祟りは収まりません。
そこで今度は当初の埋葬地とされた淡路島からこの古墳の地に移葬、ようやく祟りは収まったとされています。

祟りと崇道天皇の関連は不明ながら当時の人にとってその力は畏敬の対象だった事は、崇道天皇をお祀りするお社が数社、今でも残っていることからも確認できます☆

古墳散策

古墳の入り口は県道188号線南側にあります。入り口と言っても道沿いにかろうじて案内板がある程度で、予め場所を把握していないと絶対通り過ぎてしまうので注意。

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拝所は綺麗に整備されています

拝所です。周囲は畑に池。人の気配は全く感じられないのですが、拝所は綺麗に整備されています。

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人の立ち入りが出来ないようになっている為、白砂が綺麗に敷かれているのは理解できるとしても落ち葉一つ落ちていないのは少し異様とすら感じる光景です。

八つ石には祟りがあるとされています

今でも曰くが伝えられ、そのままに残されている場所があります。それがこの八つ石で、八島陵前石室古墳と呼ばれるここ自体も古墳とされている場所です。

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崇道天皇は死に際9つの石を投げ、その石が落ちた位置に自分を葬ってほしいと言い残していて、そのうちの8つが見つかったのがこの場所だったため、その石にちなんでこの巨石群が『八つ石』と呼ばれるようになったとされています。
実際にはこの古墳の建造時期は古墳時代後期とされ、崇道天皇とは全く関係のないものと言われています。
ただ、この八つ石は撤去しようとした工事関係者が変死したり、病に倒れたりする祟りがあると恐れられ、今も不自然な感じに残された異様な雰囲気を持つスポットです。

古墳周囲はかろうじて巡れるものの整備は行き届いていません

南側の拝所から周囲は民家に隣接していて、かろうじて巡ることは出来るものの陵域との境に垣根が植えられている程度で整備が行き届いているようには見えません。

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まとめ

今回はこれで以上です。
現在は祟りの雰囲気もなくのどかな畑に囲まれた陵墓なので安心して訪れて下さい。
訪れた僕に現在のところ変調はありません。ですが、祟りのあるスポットなどとして面白半分に訪れることはおすすめしません、少なくとも当時の人達は崇道天皇の祟りに畏敬の念を示し、それはこの陵墓の周りに点在する崇道天皇をご祭神とするお社が現在も残されていることからも推察することが出来ます。

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ご訪問の際は静かに眠る崇道天皇に敬意を払い、合掌するようにしましょう。

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