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実際問題どんな人?推古天皇とその陵墓『山田高塚古墳』を巡る

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今回は大阪にある推古天皇陵のご紹介。
推古天皇という名前は日本の小学校に通っていれば誰もが一度は耳にしたことがある名前かと思います。聖徳太子が摂政についた際の女系天皇という事で教科書で一度は目にするお名前ですが、一体どんな人物だったんでしょう、今回はそんな推古天皇と推古天皇の陵墓『山田高塚古墳』に一礼です。

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古墳概要

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古墳があるのは大阪府南河内郡太子町

この古墳があるのは大阪府南河内郡太子町という町。『太子』というのは『聖徳太子』を指していて、この辺りには聖徳太子出生の地があったり聖徳太子のお墓があったりと一言で言うなら聖徳太子と共に在る街と言って良いでしょう。

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この古墳は国道から外れた農道に面した高台にあって、なるだけ自然が残るこの風景をずっと昔からこの場所で見守ってきたんだろうことが窺える場所に建っています。

推古天皇って?

名前はよく聞きますが、この時代に関し教科書が触れているのはほぼ9割方聖徳太子の話、ついで蘇我馬子の話と推古天皇自身についてはあまりご存知無いという方も多いんではないでしょうか。なので、今回はそんな推古天皇をピックアップしてみましょう。
残っている肖像画の通り、かなりの美人だったとも。

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叡福寺所蔵より

推古天皇は第33代目に即位したとされる東アジアの中でも最古とされる女帝です。

神功皇后を含むのかというのが微妙なところですが、彼女は摂政で歴代天皇にも含まれていないので、やはり最古は推古天皇と考える人が多いようです☆

聖徳太子が摂政についた時の女系天皇というイメージから影が薄くて本人はあんまり大したことのない人物のように思われることも多いかもしれませんが

どっちかって言うと筆者が勝手にそう思ってただけに近いですが☆

かなり知略に長けた人物だったことがわかっているようです。
当時、中央政権には蘇我氏と物部氏の二大勢力が台頭して、勢力争いを行っていたのは教科書でも習う有名なお話。第32代の崇峻天皇も元々は蘇我氏側の推しメンだったはずなのに、即位してわずか五年で馬子自身の指示で暗殺されてしまいます。

この頃の蘇我氏は文字通り天皇以上の権勢を振るっていたということでしょう☆

推古天皇はこの崇峻天皇の異母妹にあたり、同じく蘇我馬子の推挙によって天皇に即位することになります。
背景には蘇我氏の権勢拡大という思惑があったことは想像に難くないところ。
ですが、教科書ではこの推古天皇はさも蘇我氏の言われるがまま即位したかのように書かれていますが、推古天皇にも思惑があって、自分の子である竹田皇子を自分の次に擁立したいと考え、ライバル関係にあった 押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一子)を擁立したい勢力に対抗するため、蘇我馬子と手を組んだという背景があったようです。

この件一つとっても周辺の豪族が力をつけてきた中、政争を上手に渡っていくしたたかで頭のよく回る女性というイメージが沸いてきますね☆

ライバル勢力と自身の側にいるけど油断のならない蘇我氏勢力、またその他地方豪族の反感を買わないように上手に操る明晰さを持つ一方で言うべきことは言う毅然さも持ち合わせていたようです。
蘇我馬子が倭の六県(天領のようなもの)の内の一つだった葛城県(奈良と大阪の間にある盆地(この古墳より少し南にいった盆地の辺り)を領土として治めたいと推古天皇に迫った時も

『あんたは叔父やけど私人。身内に国有地売却を許したなんて私は後世アホな女や言われますし、あんたも不忠義者や言われますえ』

と毅然とした態度で突っぱねたんだとか。

関西弁だと切迫した具合がいまいち伝わりにくいかもしれませんが、内容のニュアンスはより伝わったものと思います☆

時の政権中枢に居た人が公の土地について、私欲を肥やすために便宜を図るよう圧力をかけるってつい最近どこかで聞いたことがある気がするんですが多分気のせいでしょう。

古墳形状・大きさやアクセスなど

  • 正式名称:山田高塚古墳
  • 墳丘長 :南北55m、東西59m
  • 高  さ:11m
  • 形  状:方墳
  • 住  所:〒583-0992 大阪府南河内郡太子町
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内部には横穴式の石室が二つあって、推古天皇と『竹田皇子』という推古天皇ー敏達天皇の間に生まれた皇子が眠っているとされています。
正面からの全景はこんな感じ。
墳丘を頂点として丘が形成されている為、墳丘の形などを詳しく見ることはできませんが、高さ11mにも関わらず、古墳に生えた木々が割と好き放題伸びているせいもあってかなり大きい古墳のように見えます。

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  • 住 所:〒583-0992 大阪府南河内郡太子町
  • 駐車場:墳丘三段目の石垣横にスペースあり。(駐車してよいのかは不明。)

周辺道路は狭く、この古墳周辺2,3km圏内に色んな史跡が点在しているので可能なら別場所に駐車場を見つけて徒歩で巡るのが周辺の景色も楽しみながら散策出来るのでオススメ。グーグルマップ上は道が繋がっていても実際に通れるのは原付きのみ、なんて道も普通にあるので、注意して下さい。

まとめ

今回はこれで以上です。
推古天皇ってどんな人だったのか、知らなかったもしくはそもそも興味がなかったという人も多いかも知れませんが、影が薄いどころか知性と度胸を併せ持つ魅力的な女性だったという事がちょっとでも伝われば幸いです。
教科書で出てくる人物って無理やり教えられているからか、勉強している当時はそれ以上知ろうという気にはなかなかなりませんが、大人になってから改めて学ぶと面白いというのがよくわかる好例の一つです。
強くて美しい女性像に憧れる女性の参拝者に人気のスポットです、この辺りの観光の際はこちらも。

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